漂う学び、ずれた生活

📢 この記事は ChatGPT によって翻訳されました 

序:漂うような学習感

英語力を少しでも上げたいと思い、特に重要ではないことに関してはなるべく英語を使うようにしている。例えばゲームや日常で使うアプリなどだ。 しかし実際に使ってみると、何も身についていないような、どこか漂っているような感覚になる。まるで経験したはずなのに、何も経験していないような気がするのだ。

よく考えると、これは「翻訳」から「没入」への落差なのかもしれない。母語である中国語が介入すると、その経験は自分の言語や思考に結びつく。しかし完全に非母語の環境では、その経験は母語と結びつかない。普段は母語で考えているので、自然と非母語での思考過程は無視されてしまう。

比喩:コントロールされた実行感

自分の実体験で言えば、完全に英語のゲーム環境では、簡単な単語でさえ何も理解できないように感じる。だが友人と一緒にプレイして中国語で会話すると、状況は一気に変わる。翻訳モードに切り替わり、急に楽になり、全く分からなかった混乱から少し掌握感が生まれるのだ。

そしてそれは東京での生活を思い出させる。日本語で会話していても、心の中ではあまり実感がなく、あたかも事前に決められた指令を実行しているだけで「生きている」感覚がない。だからこそ、中国語の歌を聴くのが好きになった。街を歩いているときでも、「自分はまだ生きている」と感じられるからだ。

矛盾:理論上の最適と現実の退縮

とはいえ、これこそが語学学習で理想とされる「母語を完全に切り離す」環境ではないだろうか。英語ゲームに完全に没入し、中国語の干渉が一切ない状況。理論的には最も効果的な学習法のはずだ。まさに Thinking in English の状態に近い。

しかし、実際の感覚はまるで逆だ。知らない単語に出会うと、途端に「自分には何もできない、何も分からない」と感じる。その瞬間、自然と退いてしまい、結局は何もせずに終わる。結果として、英語力は全く伸びていないように感じ、むしろ自信を失っていく。

反省:完璧な特異点の幻覚

これまでの学習経験を振り返ると、自分は「学んでいる」という感覚がほとんどなかったことに気づいた。多くの場合、直感や経験に頼って判断していたのだ。ゲームや日常生活では、言語以外にも動作や指示、環境など様々な情報がある。もしかすると、自分はそうした情報だけを頼りに次の行動を決めていて、それで「理解したつもり」になっていたのかもしれない。実際には言語自体が無視され、学習は成立していなかったのだ。

では、これまで(言語に限らず)自分はどう学んできたのか。思えば、常に「完璧なタイミング」を待っていた気がする。全てが「完璧」でなければ、努力する意味は全くないと自分に言い聞かせてきた。まるで 「収集は止まらないが、学習は始まらない」 という感じだ。

この心構えは感情面だけでなく、環境や教材の選び方にも表れている。ほとんど「幅優先探索アルゴリズム」のように、各段階で「最適解」を求めてからでなければ進めない。そうでなければ「無意味」だと感じ、無理に取り組んでも結果は出ない。

生活:理性と感情のずれ

これは生活そのものにも通じる。ある不快な出来事(事柄や物)に対して、短期と長期では全く違った態度になることが多い。短期的には心を乱すが、長期的には大して重要ではなくなるのだ。

例えばある物。長期的には役立つかもしれないが、今は全く役に立たない。「将来必要になるかも」と思って持ち続けることで、不快さを抱えたまま過ごす。しかし結局、その物は使われないまま終わることもある。

片付けにも同じことが言える。理性では片付けた方が良いと分かっているのに、感情的にはやる気が出ない。あるいは「完璧なタイミング」が来るのを待ち続ける。その結果、その瞬間が来るまで、思い出すたびにイライラする。

結論:「正解」はなさそうだ

では、効率的に学習や生活をする「答え」はあるのだろうか?

たぶん……ないと思う。生活は理性的な決断と感情的な決断で満ちている。ある時期に特定の能力を伸ばそうと計画しても、未来は予測不能で、感情の状態も変わる。結果は期待以上になることもあれば、期待以下になることもある。

ただ、全く工夫ができないわけではない。新しい情報が一瞬で計画を覆すこともあるから、別の視点で自分を縛る方法もあるだろう。例えば時間を固定して、学習量は変動させる。あるいは学習量を最低限に決めて、時間は変動させる。

延長:目的性と新鮮さ

ここで、さらに一つ考えた。何かに「目的」が生じると、感情的には続けにくくなる。娯楽でさえそうだ。例えば「ストレス解消のために」ゲームをする時、逆に「本当に解消できているのか」と気にしてしまう。その意識自体がプレッシャーとなり、かえって疲れ、いわゆる「デジタルED」のような状態になる。

だから「趣味は多い方がいい」と言われるのだろう。それは確かに良い解決策だと思う。状況に応じて、異なる方法でストレスを発散できる(興味が前提であることが大事)。そうすれば一つの手段に依存せずに済む。

けれど、本質はもっと単純かもしれない。新しいものから生まれる「新鮮さ」こそが鍵なのだ。

結語:「不可控」の未来

さて、この文章は一体何を書いたのだろうか。正直、自分でもよく分からない。おそらく混乱した思考の産物なのだろう。

でも、これこそが答えなのかもしれない——生活の「不可控」を受け入れること。理性ですべてを構築しようとしても、結局……理性だけでは全てを説明できないのだ。

「状態—行動理論」が言うように、すべての変数を把握してはじめて100%の結果を予測できる。しかし、私たちはどうやって生活の「すべての変数」を集められるのだろうか。

たぶん、その「集められない」という事実こそが、生活の変数の一つなのだ。

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