はじめに
この文章は自分用。タイトルは「2024 年まとめ」ってことになってるけど、近年の生活の気付きや心の流れを記録するために書いてる。
文章力はそんなにないし、書きたいことはいっぱいあるけど、うまくまとめられないのでこのままでいく。
2020 から 2024 のこと
2020年あたりから、「時間がめっちゃ早く過ぎる」って感覚が強くなってきた。
いろいろ経験してるのに、2019年以前の「1日1日をちゃんと生きてた感覚」や「長く感じる感覚」がなくなった気がする。
でも客観的に見ると、毎年ちゃんといろんなことしてる。特に今年(2024)はほんとにいろいろあった。
年々経験値は増えてるのに、主観的には「何もしてないのに時間だけが過ぎた」って思ってしまう。
それがちょっとした混乱を生む。
人生を説明しようとした理論たち
※注意:以下は全部自分の妄想。学術的な根拠は一切ないので、信じすぎないように!
実は 2023 年後半、院試の勉強しないといけなかったんだけど、目がめちゃくちゃ痛くて、
一日中起きてられなくなって、寝たり起きたりを繰り返してた。
そんなときにふと「生活を説明する理論」みたいなものを考え出した。
状態行動理論
一番最初に思いついたのは「状態行動理論」。
人の行動って、感情・情報・経験・周囲の影響とか、いろんな変数で決まるんじゃないかって。
その変数に重みを与えて数値化できれば、かなり高精度で行動を予測できるんじゃないか?
もしすべての人の状態が分かったら、人生ってもう全部決まってるんじゃないか、って発想。
最初はただの妄想で遊んでたんだけど、ある日「これ Unity の State Behavior と似てるな」と思って命名した。
圏理論(サークル理論)
それと同時に「影響要素のグループ化」を考えるために圏理論も思いついた。
ネット上でいろんなジャンルにハマってみると、明確に分かれたサークル(圏)があることに気づいた。
サークルごとに「当然の常識」が違ってて、あるところではすごく普通なことが、他ではめっちゃ驚かれる。
情報バブル(フィルターバブル)に似てるけど、これは自分が選んだ「関心」で囲まれてるサークルの話。
名言が刺さる理由
「なんで名言ってこんなに刺さるんだろう」って考えたことない?
これも、いろんな人の経験が抽象化されて生まれた言葉で、
自分がその抽象パターンの別の実装に当てはまるから「めっちゃ分かる!」って感じるんだと思う。
もっとちゃんと言えば、人間の歴史って膨大すぎて、どんな選択肢も誰かがすでに通った道。
つまり「絶対正しい」とか「絶対間違ってる」ってことはなくて、状況次第で相対的に正しかったり間違ってたりするだけ。
信頼理論
最近のお気に入りは「信頼理論」。
人間社会って信頼の上に成り立ってる。
横断歩道を渡るとき「ドライバーがちゃんと止まってくれるはず」って信じてる。
すれ違う人がナイフを出して襲ってこないって信じてる。
日常のほとんどは「当たり前に信じてること」で成り立ってる。
まあ、ほかにもいろいろ考えてたけど、全部は思い出せないや。
理論と行動の乖離
「もし子どもみたいに自由に好きなことができたら、もっと自由を感じられるんじゃないか」
……でも、たぶんその子どもはもう“ルールの土の中”に埋められてしまったのかもしれない。
生活のいろんな問題が「理論的に説明できる」ようになったけど、
それは問題を解決する助けにはならなかった。むしろ逆効果。
理論を使って選択肢を全部考える。
結果、何かを経験しても「あ、これ前に想定してたパターンだな」ってなって、
まるでゲームで NPC の会話をスキップするように、現実のやりとりにも熱量を感じなくなった。
だから娯楽に逃げた。散歩、買い物、ランニング、旅行、ゲーム……
でも「楽しまなきゃ」という義務感があって、純粋に楽しめない。
心の中では「タスク処理」になってて、
ストレスがたまったら「ストレス値を下げるイベントを配置する」ってだけ。
自分で自分をマネージしてる。設計者も実行者も自分。
でもそのシナリオは、感情が抜けた“タスク完了型”の人生になってる。
何かをするときに「これはルール通りか?」って無意識に考えてて、
少しでも逸脱すると「良くない」って感じてしまう。
認められるために正解を探してるのかもしれない。
それってまさに、圏理論の一部じゃない? 自分もまた“説明”の中に閉じ込められてる存在なんじゃないか。
bilibili の埋め込みが微妙だったから Youtube に変更。
鹿乃の公式アカウントがあるので、動画元はBV1zr4y1n7sM
もしかして、これって「うつ」じゃない?って思ったこともある。
自殺のシミュレーションすらした。
でも、ふと思い出したのが『僕が死のうと思ったのは』の歌詞:
「死ぬことばかり考えてしまうのは、きっと生きることに真面目すぎるから」
——そう、まさにそれ。
自分はたぶん、人生に対して真面目すぎたんだ。
ほかの歌詞も刺さった:
- 「今日はまるで昨日みたいだ」
- 「見えない敵と戦ってる」
- 「明日を変えるなら今日を変えなきゃ、分かってる……けど」
- 「冷たい人と言われたから」
- 「人の温もりを知ってしまったから」
- 「あなたのような人が生きてる、世界に少し期待するよ」
でも、自分が人に相談することすらも「理論的に説明できる」って思ってる。
「こういう条件で質問したら、こう返ってくる」って、API 呼び出しみたいに。
安心を得ることも予測通りで、あまりに“予定調和”すぎてリアルさがない。
でも人生って、予定通りにはいかない。
だからこそ、自分は不確定性が怖くなってた。
その恐怖を抑えるために、理論を増やして、どんどんルール化していった。
でも感情は予測できない。理性で封じようとしても限界がある。
だからこそ、「理論に頼りすぎると壊れる」ってことがわかってきた。
説明から行動へ
時間は流れる水。
自分はその水の量ばかり計っていて、温度を確かめるのを忘れてた。
理論を使ってすべてを整理したつもりだったけど、
その枠組みが逆に自分を縛ってた。
自由に行動できるはずなのに、常に見えない“縛り”がある気がして、
感情も経験も、すべてルールのもとで処理しようとしてた。
でも、感情ってのは「理論の例外」であっていいんだ。
そろそろ「自分の感情」を優先していいんだ。
最初に気づいたのは「理論が役に立たない瞬間がある」ってことだった。
そして、その気づきすらも理論で説明しようとしてた(笑)
でも変われる。人は変わる。いろんな要因が重なったとき、方向が変わる。
たとえば、人と関わることが増えてきた。
以前の自分は内向的で、対人関係がめんどくさいと思ってたけど、
理論を通せば「別に違反でもなんでもないし、関わってみてもいいか」って思えた。
それが始まりだった。
最初に「すごくいい人」に出会って、そこから徐々に交流が広がった。
そして視野も広がって、理論も深まって、選択肢が増えた。
(同時に怖さも増えたけど、それはリスクとリターンの話)
いろんなことを試してみるうちに、「理論の正しさ」よりも「感情の納得感」が大事だと気づいた。
それが「量的に整理された生活」からの脱却になった。
とはいえ、それでもまだ足りない。
なぜなら感情もまた“数値化”できてしまうから。
ある日、リスニング練習中に聞こえてきたこの会話:
A:どっちがいい?
B:A がいいんじゃない?
A:でも B のほうが良くない?(理由付き)
B:結論決まってんのになんで聞いたの?
……これが、めちゃくちゃ心に刺さった。
自分はいつも、もう結論出てるのに、何度も人に確認するタイプ。
最適解を求めてるわけじゃなくて、「確実さ」がほしいだけ。
不確実性が怖い。
でも、たぶん……
そもそも「自分の目標」って、自分の感情から出たものじゃなかったのかも。
「こうすれば評価される」「こうすればうまくいく」っていう、理論で作った目標だった。
だからこれからは、自分の「好き」の重みをもっと増やしていく。
理論は道具であって、支配者じゃない。
人生の設計者は自分。楽しむために使うんだ。
現在
いま、自分は「自由に表現できる」し、「自由に行動できる」
(もちろん法律は守るけどね)
この文章もその一歩。
以前の自分だったら、こんな考えをまとめるのは恥ずかしかったと思う。
だから、いくつかのサブ理論はもう忘れてしまった。
でも今は思うんだ。
生きるって、プロセスなんだ。
変えられない事実なら、適応するしかない。
いろんな人と出会う。
良い人もいれば、運悪くつらい人もいる。
悲しい気持ちが続くときって、たぶん「悲しいこと」が一時的に積み重なってるだけ。
「どんなときも、ちゃんとした姿で登場しよう。すべての経験に本気で向き合う」
……これは 自己紹介ページ に書いた言葉だけど、
世界から見れば自分はただの数字かもしれない。
でも、自分にとっては、自分が“世界そのもの”なんだよ。
「
万物皆浮云、只要好心情
」
自分の
Atopes
を起動しよう。
やりたいことをやって、ほしいものを買って、行きたい場所に行こう。
深く考えすぎなくていい。思いっきり自分を出していい。
今ふと、
https://github.com/RimoChan
のアイコンが思い浮かんだ。
心から「生活を楽しむ」ってこういうことだな。
楽しく生きるのも1日。つらく生きるのも1日。
もう内面で自分を消耗するの、やめよう。
おわりに
来年はどうなるかな?
最後は、ブログの紹介文で締めよう。
この不完全な世界を、理想のカタチにプログラミングしよう!